2025年5月19日、B’zのサウンドを支えたアレンジャー/ベーシスト明石昌夫さんが心不全のため68歳で逝去。この記事では、幼少期からビーイング黄金期、教育者としての晩年までを網羅し、代表曲・編曲手法・使用機材・業界評価を徹底解説します。
目次
明石昌夫プロフィール
- 本名:明石 昌夫(あかし まさお)
- 生年月日:1957年3月25日(兵庫県西宮市出身)
- 最終学歴:大阪大学基礎工学部電気工学科卒業
- 別名義:Max Brightstone(アレンジャークレジットなどで使用)
- 肩書:音楽プロデューサー/アレンジャー/ベーシスト/マニピュレーター
- 活動期間:1988–2025年
- 逝去:2025年5月19日 心不全(享年68)
幼少期〜大学時代:クラシックとロックを吸収した“理系ミュージシャン”
4歳でヴァイオリンを始め、10代でビートルズやディープ・パープルに傾倒。
大学では電子工学を専攻しつつシンセサイザーやMIDIプログラミングにも触れ、
のちに「ギター・ロック+打ち込み」というB’z初期サウンドの設計図を描く下地を作りました。
ビーイング黄金期(1988–1997):B’zと共に駆け抜けた10年
B’zデビューから「LOVE PHANTOM」まで
1988年、デモテープがビーイングに採用され、B’zのデビューシングル「だからその手を離して」で初編曲。
以降「BLOWIN’」「ZERO」「ALONE」「裸足の女神」ほか、シングル/アルバム計100曲以上を担当。
ツアーではベース&マニピュレーターとしてステージに立ち、“3人目のB’z”と呼ばれるほどの存在感を放ちました。
ビーイング系ヒット量産
ZARD「揺れる想い」、WANDS「もっと強く抱きしめたなら」、大黒摩季「STOP!!」など
オリコン1位を連発し、1990年代のJ-POPチャートを席巻。
累計2,000万枚超のセールスを支えた立役者です。
AKASHI MASAO GROUPと独立後の活動
1994年、自身のロック・プロジェクトAKASHI MASAO GROUP(AMG)を結成。
ブルース/ファンク色の濃い4枚のアルバムを発表し、1997年に活動休止。
その後は華原朋美、V6、島谷ひとみ、アニメ・ゲーム作品など多岐にわたる編曲・プロデュースを手掛けました。
教育者として:洗足学園音楽大学で後進を育成
2008年より洗足学園音楽大学・音楽・音響デザインコース教授。
DAWとMIDIを駆使した実践授業で「ヒット曲のロジック」を体系化し、
多くの若手クリエイターを業界へ送り出しました。
編曲スタイル&使用機材
- 厚いシンセレイヤー:KORG M1/M1Rでストリングスやヒット音を重ね、90年代J-POPらしい煌びやかさを演出。
- タイトなリズム・セクション:LinnDrumやAkaiサンプラーによる打ち込みで、エッジの効いたギターサウンドと共存。
- ベース・サウンド:Warwick StreamerやB.C.Richを駆使。ライブではMIDIパッチチェンジで瞬時に音色を切り替え、低域に鋭さを加味。
主要編曲作品(抜粋)
- B’z「BLOWIN’」「ZERO」「LOVE PHANTOM」
- ZARD「揺れる想い」「負けないで(ライブVer.)」
- WANDS「もっと強く抱きしめたなら」
- 大黒摩季「STOP!!」「DA・KA・RA」
- FIELD OF VIEW「突然」
- SIAM SHADE「1/3の純情な感情(シングルmix)」
訃報と業界の反響
2025年5月19日に心不全で逝去。葬儀は近親者のみで執り行われ、
後日予定される「お別れの会」には音楽関係者やファンが参列予定です。
訃報を受け、松本孝弘・稲葉浩志をはじめ多くのクリエイターが
SNSで追悼コメントを投稿。ハッシュタグ#ありがとう明石さんはTwitter 日本トレンド1位となりました。
まとめ:明石昌夫が残した“立体的なロック・ポップス”
ロックの疾走感と打ち込みの煌めきを融合させた明石昌夫さんのアレンジは、
90年代J-POPを象徴するサウンドとして今なお多くの楽曲で鳴り続けています。
「職人×エンジニア×プレイヤー」が三位一体となった稀有なクリエイター像は、
これからも世代を超えて語り継がれるでしょう。
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